1.乾邸について


a 乾邸物語 〜御影邸宅群の名残〜
 大正から昭和の初め、住吉川の西、国道2号線から北の御影界隈に豪邸が次々と建設された。

 豪邸建設の先鞭をつけたのは村山龍平、朝日新聞社の創業者である。その後競うように住友、 野村などの豪商が次々と御影界隈に邸宅を建てた。

 昭和11年、乾汽船の二代目社長・乾新治(後に襲名して新兵衛)もそれにならった。昭和12、13年ごろから 戦時統制令に入るため、豪邸建設の最終ランナーである。建築家は洋風建築で名を馳せた渡辺節(わたなべせつ)。 イギリス・ジャコビアン様式の、内装に凝ったデコラティブな建物である。

 この優雅な邸宅が生成されるには建築に勝るとも劣らぬドラマティックな「物語」がある。 乾家は一代で豪商の仲間入りを果たした家なのだ。

 1代目、乾新兵衛は醸造業・乾商店の奉公人だった。跡取りの養子が死んだために、未亡人の後 添いにさせられた。まさに逆玉の輿。だが家業の酒造業を続けていたのでは、その後の発展はない。陰で 「金貸し新兵衛」と悪口をたたかれながらも財を作り、海運業に乗り出した。折からの日露戦争、第1次 世界大戦の機運に乗じて、大正7年には当時の金で5千万円とも1億円ともいわれる儲けを手にしていた。 一代で財を成す立身出世を絵に描いたような男である。しかし当の新兵衛の生活は質素そのものだった。

 2代目新治は、生まれたときから金持ちの息子だ。脇目もふらず働く父の姿はまぶしくもあったろうが、 うそ寒くも感じたに違いない。彼はハイカラ、モダンといわれ、多趣味な近代的教養人であった。 観世流の謡曲、歌舞伎、相撲、ゴルフなど、多岐にわたる趣味のせいで、仕事以外の人脈も豊富だった。 その人脈の一人が建築家・渡邊節である。渡邊節とは年も近く、また住まいも近かった。新治は新邸の建築 を友人渡邊節に任せ、おしげもなく費用をつぎ込んだ。だが家が完成した5年後、狭心症の発作であっけ なくこの世を去る。

 3代目豊彦は、名古屋の裕福な生まれであった。三井物産時代に新治に目をかけられ一人娘・道子の養子となった。 義父の急死で、弱冠33歳で乾汽船の社長に就任した。

 彼は太平洋戦争を乗り越えた敏腕の実業家でもあったが、戦後の食うや食わずの時代に、批判されながらも 広野ゴルフ場の再建にいち早く着手した無類の趣味人でもあった。

 乾邸こそ、明治、大正、昭和を駆け抜けた男のロマンの結晶なのである。その乾邸が今危機に瀕している。 平成5年、豊彦が死去して、邸宅は相続税として国に物納された。国は神戸市に貸与して十年以内に有効利用 の道を考えさせることにした。

 そこに阪神大震災が起きた。神戸市は財政難に陥り、乾邸どころでなくなった。それから10年、約束の期限が 尽きようとしている。競売の憂き目も考えられる、と有識者が立ち上がって、乾邸の有効利用を真剣に検討し 始めた。六甲山麓環境文化活用倶楽部(The Mount Rokko Area Culture & Environment Preservation Club) 愛称をラセップ(R.A.C.E.P)という。

武庫川女子大学 たつみ都志 教授

出典:武庫川女子大学 広報室発行「リビエール」



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戦前の「乾邸」